香港一のお金持ち「李嘉誠」の話で友達がととんでもない誤解をしたおかげで、李嘉誠を深く知ることができた。
先日、友人と香港一の大富豪、李嘉誠の話になったんです。すると友人が「李嘉誠もう死んだよ。そんなことも知らないの⁈」と。
李嘉?:我一生的理念 - 李嘉誠:我一生的理念 [Li Jiacheng: My Lifelong Ideas]
- 作者: 李永宁 - 李永寧 - Li Yongning
- 出版社/メーカー: BOVCM
- 発売日: 2017/11/07
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まったく頑固で困ります
「えーーーーーっ‼︎そんなことないでしょっ ‼︎私になんにも連絡きてないよ!」連絡くるわけないって (x_x) ☆\( ̄ ̄*)バシッ
信じられなかったんで、香港の友人に聞いてみると、「引退しただけで、亡くなってはいないよ!」と想定内の返事。
そだねー、そんなはずないよねー。とならない頑固な友人・・・(-。-;
とんでもないページを発見!
仕方ないのでネットで調べてあげると、「李嘉誠は2018年xx月xx日になくなりました。」と書かれたページにたどり着いたんです∑(゚Д゚)
えーーーっ、うそでしょ⁈なにかの間違いでしょ⁈と目を疑いました。
よーく見ると、その亡くなった日付が検索日の翌日の日付(・・?)そして「誰もなくなってませーん。フェイクニュースでーす。」と書いてあるじゃないですか!さらにご親切に「お忙しい記者の方々に情報を提供しております。」とまで書いてあるし🤷♀️
ということで李嘉誠は健在であることがやーっと納得できた友人。
まったくとんでもないサイトを作る人がいるもんですね。そこには他にもいろんな著名者の訃報予告があって、気になって何気に見ちゃったりしてf^_^;
気になる方は「亡網」で調べてみてくださいね。
李嘉誠はどんな人⁇
世界第8位の大富豪。いま風に言うと超絶金持ち💰💰💰東日本大震災の被災者のために100万ドル(約8千万)を寄付したことでも知られています。
今年の5月に香港の長江和記実業と不動産大手の長江実業集団の主席を引退し、ご子息にその地位を譲りました。
今でこそ香港一の超絶お金持ちの李嘉誠なんですが、そんな彼には実はつら〜い下積み時代があったんです(/ _ ; )
どうやって億万長者になったのか?
12歳の頃、日中戦争で日本軍が潮州に攻め入ると、一家で香港のおじを頼って香港に逃れます。13歳で父親を肺病で亡くし、李嘉誠は残された家族を養うため、学業を断念し、飲食店の給仕として働き出します。
17歳でプラスチック会社のセールスマンになりますが、始めはなかなか売れず営業成績もイマイチでした。
ある日、飛び込みで入った会社で、上司が従業員に花に水をやるように指示しているのを目にします。すかさずジョウロを売り込みますが、「そんなの要らないよ!」と軽くあしらわれてします。
普通だったら、諦めて帰ってしまうところ、李嘉誠は「私に何かお手伝いできることはありませんか?」と居残るのです。
そして従業員のそばへ寄って、持参したプラスチックのジョウロで水をあげようとします。申し訳ないと思った従業員は自分で水やりするからと鉄製のジョウロを手にしたところ、水が入っていなく、李嘉誠の持ってきたジョウロを手にとります。するとその軽さに「なんて軽いんだ!」と感激して、マネージャーに李嘉誠のジョウロを軽くて安くて便利だ!と絶賛し、商売が決まったのでした。
自分の損得ばかりを考えず、相手にメリットを与えてることを惜しまない、そんな精神が実を結んだのでした。その後メキメキと業績を上げるのです。
誠実さで勝ち取った初の大金
1950年22歳の若さで、貯蓄と、親類から借りたお金を合わせた5万香港ドルを元手に長江塑膠廠(プラスチック工場)工場を立ち上げます。
生花はすぐ枯れてしまうし、水あげが面倒だと造花に目をつけます。しかし一見製造が簡単そうに見えますが、その製造工程や色付けなどの技術は企業秘密です。李嘉誠にはその技術がない、技術習得のためオーナーの身分を隠してイタリアの工場で働くのでした。
技術を身につけ香港に戻った李嘉誠は、コストダウンに成功して香港本土で「香港フラワー」を売り出しますが、売れ行きは思うように伸びません。
そんな時、ある商社のスペイン人が李嘉誠に9種類のプラスチックフラワーのサンプルの製作の依頼を持ちかけます。デザインができたら発注する代わりに、香港の実力者に保証人になってもらうことが条件でした。しかしこんなちっぽけな工場の李嘉誠の保証人になってくれる人は見つからず、最後の望みのつなだった叔父からも断られ、絶望の淵に立たされました。
普通の人なら「もうやーめたっ」と投げ出してしまうところ、李嘉誠はあきらめず、9種類のサンプルを持って、その真実を打ち明けるのでした。
「9種類のサンプルは何日も夜なべして苦労して作り上げたものです。保証人が見つからなかったのは自分の非力のせいで、この注文を撤回されても仕方ない。このサンプルは差し上げます。使えそうでしたらお使いください。」とサンプルを渡します。そのスペイン人は彼の誠実さにひどく胸を打たれ、「保証人など要らない、君のその誠実さを信じよう!」と製造を一任するのでした。
この注文で李嘉誠は初めて大金を手にするのでした。
李嘉誠の損を恐れない、人に利用されるのを恐れないそんな精神が相手の信頼を勝ち取ったのでした。
ピンチがチャンスに変わる!
5年目に、あるヨーロッパの商社よりまとまった注文を受けます。しかし製品を作り終え出荷の準備に取り掛かったところで、「もう要らなくなったから。」とドタキャンされてしまうんですΣ(゚д゚lll)
李嘉誠は損害を求めるどころか、香港では売れ行きがいいから売りさばけるだろう、また何かあったら声をかけてほしいと賠償など一切求めませんでした。
そんなことを忘れた頃に、ある商社のアメリカ人が、まだ小規模だった李嘉誠の工場に一度に半年分注文をくれたんです。実はそのアメリカ人はドタキャンした商社から李嘉誠は信頼できると太鼓判を押され訪ねてきたのでした。それから4年ほど取引が続き、売上高は1000万香港ドルまで達し、「香港フラワー大王」の異名を授かることになるのです。
まさに万事塞翁が馬ですよね!
李嘉誠を本当の超絶お金持ちにさせたのは不動産事業だった
戦時中60万人だった香港の人口は右肩上がりに増え、1972年には400万人になりました。
1970年代になると、政治の動乱で多くの人々が海外へ流出します。地下が暴落し、そこに商機を見出します。香港フラワーで得た財を廉価な土地の大量に購入に投じて、不動産業に転身します。
その後、香港の人口が急増し、地価が何十倍、何百倍にも急騰し、李嘉誠は巨万の富を築くのです。
香港人の普段の会話にも李嘉誠が登場する
香港人の親御さんが子供「一生懸命勉強して将来李嘉誠のようにお金持ちになるんだよ!」とはっぱかけたりするんです。
香港のテレビなんかでも、誰々がどんなにお金持ちになったなんて話になると、「あんた自分が李嘉誠だと思ってるの?」と冗談で言うほど、李嘉誠がお金持ちの代名詞になってるんです。
さすが真のお金持ちはやることがデカイ
お正月に李嘉誠が記者たちにお年玉を配ったことがあったんです。たしかそれがなんと1000香港ドル(15000円)も入ってたそうです。さすが真のお金持ちはスケールが違いますよね!
最後に
李嘉誠の目先の利益にとらわれなず、損を恐れない、将来を見据える、そんな李嘉誠の姿勢に脱毛、いや、脱帽でした。
最後までお付き合いありがとうございました。
それではまた拜拜(^^)/~~~